漢方を消化器診療に導入するには──機能性ディスペプシアの弁証治療

漢方を消化器診療に導入するには──機能性ディスペプシアの弁証治療

機能性ディスペプシア(functional dyspepsia:FD)は、内視鏡検査や血液検査などの画像・生化学的指標に異常がみられないにもかかわらず、上腹部の不快感を主訴とする消化器疾患です。
実臨床においては、症状の慢性化やPPI抵抗性、患者のQOL低下に直面することも多く、標準治療のみでは対応が難しい症例も存在します。

中医学では、こうした“器質的異常が捉えにくいが明らかに不調が存在する”状態を、臓腑機能の失調として捉え、病機(証)に応じて方剤を選択するという立場をとります。
本稿では、FDに対する中医学的診立てと、その臨床応用について整理いたします。

脾胃の視点──消化管症状をどう構造化するか

中医学における「脾胃(ひい)」は、単に消化管を指すのではなく、飲食物の受納、消化、吸収、気血の生成、全身への運搬といった一連の代謝活動を支える“消化・同化の中心”とされています。
また、「肝」は自律神経やストレス反応、「腎」は回復力や老化、「心」は精神的安定に関わるとされ、FDの背景にはこうした臓腑の機能失調が複合していると考えられます。

たとえば「食後の膨満感」は、脾胃の虚弱による運化低下、「早期飽満感」は肝気の横逆による胃気の障害、「みぞおちのつかえ」は寒熱の混在や水湿の停滞など、複数の病機として整理されます。

FDに対する中医学的病機分類

病機(証) 特徴的な症状 舌・脈
脾胃虚弱 疲れやすい・食後の膨満・軟便 舌淡、苔薄白/脈虚
肝胃不和 ガス・げっぷ・食欲のむら・抑うつ 舌やや紅、苔薄/脈弦
食滞停胃 胃重感・口臭・舌苔厚膩・排便不爽 苔厚膩/脈滑
胃陰虚 食後口渇・乾燥感・灼熱感 舌紅少苔/脈細数

代表処方と適応症例

  • 六君子湯:脾気虚による食後膨満感、倦怠感、軟便に。基本処方として広く使用。
  • 半夏瀉心湯:みぞおちのつかえ(痞)・悪心・胃内停水感。GERDやIBSとの合併例にも応用。
  • 香蘇散:ストレス・気うつ傾向のある食欲不振に。軽度の肝胃不和に対応。
  • 平胃散:飲食過多や食滞が疑われる膨満感・食思不振に。舌苔厚膩が目印。
  • 清胃散:胃熱が優勢な上腹部灼熱感・口臭などに。胃陰虚・食滞の鑑別が重要。

各方剤は、単に「FDに使う」ものではなく、証に応じて選択されます。証の判別には、主訴のみならず、舌診・脈診・食習慣・精神状態などの包括的評価が求められます。

保険適用処方との接続と現場対応

実際の臨床では、保険適用か否かが処方選択に影響する場面もあります。以下はFDに用いられる代表的な保険適用漢方エキス製剤です。

  • 六君子湯(ツムラ43):厚労省ガイドラインでも軽度推奨。PPI無効例にて保険対応可能。
  • 半夏瀉心湯(ツムラ14):腹部膨満、胃部違和感、心下痞などの証があれば適応。
  • 桂枝茯苓丸(ツムラ25):女性例で瘀血が関与すると考えられる症例に補助的に。

香蘇散や平胃散、清胃散などは保険適用外のケースが多く、院内製剤や煎薬、または自費診療における選択肢として検討されます。

ピロリ除菌後FDと漢方的対応

ピロリ菌除菌後も残存する胃もたれ・膨満感・食欲低下といった“機能的症状”に対して、六君子湯や香蘇散の使用経験が報告されています。
除菌後の胃粘膜萎縮・胃酸分泌低下に伴う消化機能の低下は、脾胃虚弱の一環として捉えられることが多く、補気・健脾処方が適応されやすい傾向があります。

また、長期経過を経た除菌後の患者には、心理的要因の併存がみられることもあり、肝気鬱結を意識した香蘇散、加味逍遙散などの検討も一案です。

併用時の注意と実地的視点

中医学の処方を併用する際には、以下の点にご留意いただくと、より安全かつ有効な介入が可能となります。

  • 甘草含有処方:偽アルドステロン症リスクに配慮し、高齢者・利尿薬併用時に注意。
  • 複数の漢方製剤を併用する際は、処方構成の重複(例:茯苓、半夏)にも留意。
  • PPI・アコチアミド・抗うつ薬との併用においては、効果増強・緩和の方向で用量調整を意識。

終わりに

機能性ディスペプシアに対する治療は、時に“標準的選択肢が尽きた後”に漢方薬が登場する構図になりがちです。
しかし、中医学は病態の多様性を構造的に整理し、個別化治療を組み立てる体系を持つ医学でもあります。

既存の診療体系を補完し、「説明しきれない症状」に向き合うもう一つの診断軸として、中医学的診立てと方剤活用が、日常診療の中で穏やかに息づいていくことを願っております。

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シリーズ: 医師向け記事
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